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死、サンフランシスコ、釜山、そして又、死。セドナ、東京、大阪。サンフランシスコに戻る [亜米利加生活]

2011年12月4日

妙なタイトルですが。。前回このブログを投稿してから、私の生活で起こった事をただ羅列しています(笑)

そうこうしているうちに、12月になってしまいました。間もなく2011年も終わろうとしています。

最近、フェースブックの日本の加入者が増えて、私のフレンズリストに、日本に住む日本人が増えて来ました。厄介なのは、どこまで自分の生活を日本の知人にさらけ出せるか、と悩んでしまう所です。以前もシェアーしましたが、ちょっとした理解の不一致が起こったり、ねたみ、ひがみの様なメッセージを受け取ったり。人によっては、誰からもフレンズリクエストを受け入れて、見ず知らずのオンラインのお友達をたくさん持っている人もいる様ですが、私は、私が実際に知っている友人、もしくは、自分の趣味・仕事関係で、自分は直接面識がないものの、共通の知人がいる方しかお友達承認をしておりません。全くの見ず知らずの方からのお友達リクエストは無視しています。それでも、日本人のお友達と、時々嫌な思いをする事があるのです。今のフェースブックは、プライバシーの設定が、非常に細かくできる様になっているので、どの情報を誰にシェアーするか、最近は神経を使っています。よって、段々面倒になって来ています(笑)。
でも、どちらかと言うと、日本の友人、知人達とは、自分からの発信と言うよりも、彼らのシェアーする内容を非常に楽しんでいます。何と言うか、生の日本の生活観が伝わって来ますので、とても勉強になるのです。こんな方法で、自分の日本の現状に対する知識を補っている、と言う感じですが、これが今のソーシャルメディアのメリットの一つでもある訳で、それをふんだんに活用させて戴いている様に思います。

さてと。前置きはこれ位にしまして。本題。。

随分昔の様な気がしますが。10月5日に、アップルの創始者、スティーブジョブズが逝ってしまいました。8月に、アップルのCEOを辞任された時、もうそう長くないのだろう、と思っていました。

自分がこれ程、衝撃を覚えるとは、驚きました。
彼は、敵ながらあっぱれ、と言うか。彼自身が、私の勤める会社の創始者のビジョンをそのまま実行している事を感じ、憧憬の意が強かった事もあるでしょうし。会社を超えて、人間として、リーダーとして、ビジョナリーとして、私は彼を尊敬しておりましたので、彼を失った事にショックを受けた、と言うのはあるかもしれません。道標を失った喪失感。

それと。スティーブジョブズが、長い間、すい臓癌と闘っていた事を知っていたからでしょう。スティーブジョブズの死を聞いた時に、茶長の死の訃報を聞いた時と重なり、涙が止まらなかったのです。
そしてその後、かなり落ちこみました。

その翌週、丁度アップルが社葬をやった日に、仕事でサンフランシスコまで行きました。

その後、10月末に、今年もヨットレースの為、韓国は釜山まで、行って来ました。
毎年、色々あり、色々考え悩む事がありましたが、今年は今までにない程の厳しいものでした。
そして、その経験から得られた事は、とても大きなものでした。この件については、後述します。

そして、韓国から戻った日の晩。。。今度は、メキシコ人の友達、マリアが、胃癌で逝ってしまいました。
11月2日は、奇しくも、メキシコのDia de Muertos(死人の日)、日本で言うお盆の様な日で、死んだ人々を弔い、感謝する日で、メキシコでは祝日になっているそうです。
まるで私の帰りを待っていたかの様に、逝ってしまいました。

マリアとは、サンディエゴに引っ越した翌年、2008年に知り合いました。私が、私の家のお掃除をしてくれる人を探していた時に、たまたま知人が、良い人がいるから、と紹介してくれて、私の家に2週間に1度、お掃除をしに来てくれる様になり、信頼関係を築き、お友達になりました。私の散らかった家を、文句も言わずに、掃除してくれました。私の家の事を色々手伝ってくれて、私をありのまま受け入れてくれて、時々ご飯も作ってくれて、まるで私のお母さんの様な存在でした。年は、私と同じ位だったのですけれど。。さすがに、4人の息子のお母さんと、いまだ独身女は、懐が違いすぎます。。(笑)

彼女が、胃が痛くて、食べても嘔吐してしまう程ひどくなったのは、3ヶ月前です。突然の変化でした。
検査をして、お腹を切った時には、既に手遅れで、自宅で痛み止めを打ちながら療養し、自宅でなくなりました。あっけない死でした。彼女には、3人のTeenagerの息子に加え、2歳の息子がいました。彼女が、高齢で妊娠し、4人目の息子を出産し、一時期、息子を連れて私の家に来る様になり。その頃の彼女は、とても幸せそうでした。癌と言うのは、あっと言う間に人の命を奪ってしまうものです。

彼女のお葬式の為、小さなチャペルまで行きました。
その日は、サンディエゴには珍しく、朝からずっと大粒の雨が降っていました。

アメリカでのお葬式に参加するのは、私にとって初めてでした。棺の上半身が大きく開いていて、彼女の上半身が見えました。マリアは、手を重ねて、水色の綺麗なドレスを着て、まるで眠っているかの様な安らかな顔で、少し微笑んでいる様でした。体は、ものすごく小さく、痩せていました。。が、顔はとても綺麗でした。マリアの死で、又、茶長の死の事を思い出し、そして、叔父の死を思い出し、祖父の死を思い出し、かなり落ちこみました。

私は幸い、近い人の死を余り迎えた事が未だ無いのですが。私達は、人の死を迎えると、それまで逝ってしまった人々の事を思い出すものなのでしょうか。今回はそんな事を感じました。

このマリアのお葬式に、サンディエゴでは素晴らしい虹が空にかかっていました。

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又、茶長の事を思い出し、涙しました。。。Over the rainbowのメロディーが頭に流れていました。

そして。。2011年11月11日の儀式の為、今年もセドナまで行きました。昨年の、10-10-10から始まり、来年の12-12-12-まで、3年間の儀式です。今回は、車で行かず、アリゾナの、フェニックスまで飛行機で飛んで、そこからレンタカーしました。泊まったホテルは、Rougeと言う、ボーテックスの一つ、サンダーマウンテンの直ぐ傍にあり、高級ホテルなのですが、グルポンで半額以上になり、お安く泊まる事ができました。

このセドナの件は、改めて次回にお話します。

その後、サンディエゴで、アメリカズカップのワールドシリーズが行われていて、世界中からヨット仲間がサンディエゴに来ており、忙しい日々を送りました。最終日のファイナルは、海上で観戦。

その後、20日から29日まで、日本に里帰りしました。
今回は東京と、大阪まで足を伸ばして、とても素敵な時を過ごしました。
当初の予定では、30日まで日本に滞在する事にしておりましたが、30日にサンフランシスコで会議があり、その会議出席の為、帰りのフライトを29日深夜の羽田便に変更し、東京から直接出張先に飛びました。そして、サンディエゴに、12月1日(木)、戻って来たのですが、とんでもない事が私を待ち受けていようとは。。その時は夢にも思いませんでした。この件も後日書かせて戴きます。。

そして、今日に至ります。。。12月最終週は、フロリダ辺りに飛んで行くかもしれません。。
流浪癖は、直りそうにありません。そして、これが直らなければ、家庭を構える事もないのかもしれません。(笑)

さて。。ここまで、つらつらと近況報告の様なものを書き、かなり長くなっておりますが。
今年の韓国、釜山の件を書こうと思います。もし、お時間がありましたら、この先も、どうぞ読んで行ってください。セドナの旅、東京・大阪の旅。日本から戻って起きた事、書きたいですし。昨年のクリスマスに遊びに行った、スコットランドも、書かずに1年が過ぎようとしておりますので。
今年の垢は今年のうちに。。昨年の残りも今年のうちに。。書きたいと思います、です。はい。。。

釜山の空。。イベント会場

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今年の8月頃に、釜山カップ、女子国際マッチレースのチーフアンパイアーを勤めるイタリア人の友人から、連絡が来ました。”今年も、僕と、レース委員長(アメリカ人)は、釜山カップをサポートする事をコミットしたけれど、君も来てくれるよね?” と。

彼らとは、釜山カップが始まった2008年からずっと一緒にやって来た仲間で、過去3年間ずっと、その成長振りを一緒に見てきた仲間。言ってみれば、私達は釜山カップの産みの親、の様な感覚があるのです。

”もちろん、あなた達が行くなら、私も必ず行きます”。。と答えたものの、直感の鋭い私には、何か良くない感覚がありました。と言うのも、時期を同じくして、例年なら釜山カップ主催者から、今年も来てくれ、と私宛、直接依頼のメールがあるのに、今年はそのメールが、無かったからです。

私も行くと答えたものの、さてどうしたものかと思い、相談した所、主催者のキーパーソンの一人とコンタクトをしろ、と言って、その方のメールアドレスを教えてくれました。

それから、1ヶ月、私はその方と連絡を取りませんでした。何か、こう嫌な予感があったのです。

9月末を過ぎ、釜山カップまであと1ヶ月を切った時。さすがに、このままではまずい、と思い、釜山カップ主催者のキーパーソンに、メールを書きました。

”チーフアンパイアーとレース委員長から、お前も来てくれるよな?と依頼があり、私も釜山カップをサポートする検討をしているのですが、今年も私は釜山カップに呼んでもらえるのでしょうか?”、と。

過去3年間の私の飛行機代とホテル代、食事代は、主催者側が負担していました。
呼んでもらえるのか、と言うのは、そう言う意味です。

1週間後に、返事が来ました。

今年は、バジェットが厳しく、あなたを招待する事はできない。でも、もしあなたが、日本チームの応援に来るのであれば、宿代は負担します。

そう言う返事でした。

つまりは。私を、イベントのサポートをするVIPとして、チーフアンパイアーやレース委員長と同様に、招待する事はできない、と言う事。私の飛行機代も出せないし、VIPとしても招待できない。でも来たければ、ホテル代は出す。 

私は、この返事を見た時に、自分では対処できない位の怒りを覚えました。
3年間、チーフアンパイアーとレース委員長と、釜山カップのレースを盛り上げて来たのに、その貢献も、功績も全く評価されないのか、と。。。その怒りの後ろには、悲しみと痛みがありました。

日本のチームの応援の為に、アメリカくんだりから行く訳がない。過去3年間、一生懸命サポートしたのに、全く評価されていない様な気がしました。ひどい。悪いけど、今年は行かないし、今後2度と行かない!!

そう返事をしようと思い、返事を書き始めました。が、それを発信する事に躊躇しました。
感情的に書いた返事は、発信する前に、一晩か二晩寝かして考えた方が良い。。過去の経験から学びました。

1週間位、経過したでしょうか。。。自分なりに色々考えました。
このまま自分の怒りにまかせて、行かないべきか。。それとも、行くべきか。。行くとしたら費用は自分が負担する事を覚悟しなければならない。でも、来てくれと言ってくれている仲間の期待に答える事はできる。

でも、それだと、招待されてないのに自分から行く、と言わなければいけないのは腹立たしい。私が行かなかったら、私がいなくて大会は困り、ほれみろ、ざまあみろ、私を呼ばないからだ、と主催者に思い知らせたい。。

私にとっては、後者の対応の方が、心がすっきりとし、自分にとって心地よい対応となるのは明らかでした。

私の結論は。。。私の腐ったプライドを捨て。。行く事にしました。

私の、主催者側への返事は。”私は招待されようとされまいと、釜山カップをサポートしたいという気持ちは変わらない。行きますので、ホテルの手配だけお願いします”。と。

結果。。主催者側から、最終的に飛行機代を出してもらう事になりましたし。VIPとして、扱って戴きましたし。皆、私のサポートに関して、感謝をしてくれました。

そして。後に。。釜山カップは、2013年の女子マッチレースの世界選手権を開催する場所として選定されました。

もちろん、主催者からは、2013年までサポートして欲しい、と言われています。

これが、もし、私が自分の腐ったプライドを守り、机をひっくり返して、2度と行くもんか、と言っていたら。。。今頃は、私の評価は地に落ちて、過去の人となっていたでしょう。。

人間。。負けるが勝ち。。と、茶長から教えられましたが、今回身を持って体験する事ができました。

釜山では、思いがけず、花火も見られました。本当は、船に乗って、海上で花火鑑賞だったのですが。。船のエンジンが壊れて海上には出られず、おまけに大雨でした。が、久しぶりの花火で嬉しかったです。
韓国の花火は、アメリカ式に、ぱんぱんと上がっていましたが。。

では。次回、今年中に、セドナ、日本と書き連ねます(目標!)。。











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